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ツガう。
「つきあう」というのはどういうことだろう。
それは或る種の「契約」とか「約束」のように見えるけれど、
実際に、それが何かの効力を持つかというと、あまりそういうことはなく。
つきあっていようと、結婚していようと、
相手を好きでなくなったり、他の人を好きになったりする可能性は必ずあって。
ヒトが「個」である以上、関係に安心を得られるようなことはない。

何か効力があるとしたら、外に対しての「告知」というくらいのものかもしれない。
「私達はお互いに好き合っていて特別な関係にあるので、手出しは無用ですよ」
とか、そんな感じの。
それも大した効き目はないように思う。
相手がどこを向いていようと、感情は、なかなか制御できないものだからだ。


それでは何故、ヒトは「つきあう」というカタチを作ろうとするんだろう。

そこには
「アナタのことが好きで、一緒にいたいんです」
というような「気持ち」しかない。
その「感情」を相手に示す手段として、関係に名前をつける。
口で「好き」だ、と言うだけでは足りなくて、だから特別なことをしてみる。

それはそれでいいし、意味があることだと思う。
相手が喜ぶことをしたい。
相手が嫌がることはしたくない。
そういうのと同じで、感情の表現=行動のひとつとして
「つきあう」という行為は存在する。

けれど、ただそれだけのことなのに、どういうわけか
「つきあう」ということには、約束じみた印象がまとわりつく。

「つきあっているから、他の人とセックスしたりしません」
「つきあっているんだから、他の人を好きになってはいけません」

何か勘違いしている気がする。


別に「ただなんとなく」で「つきあう」というのを否定するのではない。
そんなことを、うだうだと考えてしまう自分の方がどうかと思うし、
感情から発生する行為なのだから、考えなしに突き進むのが素直な行動だ。

ただ、不安定な「感情」を、理屈で繋ごうとしているように見える
「つきあう」という行為は、それこそ曖昧で不確かな関係で。
その割には世間的に確かに認められたカテゴリなんだなあ、とか思ったのだ。
あー、面倒臭い。

まあ、なんていうか、今の私には現実としてあまり関係のないことだけれど。
| シコウノフキダマリ。 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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