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異性という存在。
予告通り、前回の続きのようなものを。

「スカーレット・ウィザード」に出てくるヘレンは、
結婚したくなくて既婚男性と関係してばかりいる。
彼女は、結婚に対して、というより、「結婚」という言葉に対して、
あまりよくない印象がある、と言う。
二人で一人だと決めつけられて身動きできなくなるような、
互いをがんじがらめに鎖で縛り合うような。そんな気がするのだ
、と。

「対幻想」に抗っているようで、興味深い思考だと私は思った。
「対幻想」という言葉を私は20050716セクシュアリティ。に挙げた
上野氏の「発情装置─エロスのシナリオ」で知ったのだが、
元は吉本隆明という男性思想家が発見した言葉(表現)らしい。
この「元」の方を少し調べてみると、
どうも私が上野氏の著作から感じ取った意味合いとは違うようなのだが、
そこを突っ込んでいくと長くなるので、ここでは割愛することにする。

上野氏は前述の著作の中で、このように記述している。
 対幻想は人をつがわせる。
 対幻想は「一人では不完全。他者のいないおまえは無だ」と、
 女を(そしてときには男をも)脅迫する。

そう述べられた文章から私は「対幻想」という言葉を、
つがいになることで初めて認められる社会的立場、という思想(妄想)、もしくは、
「父の支配」から「夫の支配」へと移行することで「自由」或いは「個人」を獲得できる、
という女性の思想(妄想)、というふうに理解している。

別に、つがうことが悪いなどと思っていないし、
むしろ自分ができないことをしているという点で尊敬すら覚える。
のだが、それを強要されたり、そうしないことで白い目で見られたり、
あまつさえ「子供を産んで初めて……云々」などと言われると腹が立つ。
要するに「対幻想」がどうとかいうより、
違う価値観を認められない狭量さが嫌なだけなんだが。


話を戻そう。
結婚はしたくないと言いながら、しかし、
ヘレンは「そこまで用心して男友達を」つくる理由を、
「ときどき……無性に寂しくなることがあって、
 そんなときは誰かに傍にいて欲しいと思うんです」
と話す。
私は「やっぱりそうなのか」と思う。

以前、しょっちゅう「男が欲しい」と繰り返す女友達がいた。
彼女はその理由をやはり「寂しいから」と言った。
そして「男じゃないとダメ」
「男じゃないと頼れない感じがする。女友達とは違うと思う」とも。

こういう感覚は、私には、わかるようでわからない。
そもそも「独りでいることが寂しい」と思わないので、そう思ったときに
「一緒にいて欲しいと思う」対象の性別まで想像できないせいかもしれない。
確かに、友達であっても、男に対するときと女に対するときとでは、なんとなく感覚が違う。
大雑把な、性格なんかの違いが、両者は別物だと感じさせるし、
どちらかといえば、男に対する方が欲情する可能性が高い、というのもあるし。
けれど、そこで、あくまでも異性を望むのは、動物的な本能なのか、経験的な感覚なのか。
実感がないので不毛な話だが、それゆえに興味が尽きない。

ところで、その女友達は、しばらく時間があいて再び会ったときに
「前にこういう話をしたけど、今はどうなの?」と聞いたところ、
「そんな話したっけ?」と返してくれた。
どうやら、強烈に異性を求める時期は過ぎ去ったらしい。
最近はどうしていることやら。
| シコウノフキダマリ。 | 00:00 | comments(9) | trackbacks(0) |
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うーん。
難しいことはよくわからんですが、しかし、
人が他人の存在によって自己を認識したりもするように、
異姓の存在によって自己の性を認識する、てのはありますね。ええ。

そして個人的な感覚ですが(全てが個人的なものですが《苦笑》)、
「ごめんなさい」よりも「ありがとう」の方が気持ちがいいので、
どちらかといえばそちらを多用することを推奨したく思います(なんだそりゃ)。
| ハルイ | 2008/04/10 4:05 AM |
ごめんなさい、コメントの訂正をします。

男というのは、自分が凸、射精を認識しして性を得ます。
女というのは、凹です。これは、凸が入らない限り、本当の意味で性を認識する事は出来ません。そして凸が入る事による痛みを感じてしまいます。

そして凹は定期的にその「へこみ」を補填します。それが、生理です。激しい痛みが伴う出産の代償行為なんだと思います。
そしてこれは、「男の代わりに罪を償う」という意味もあるんだと思います。


なので男の罪はもう一つ、女性と一つになる時に痛くしてしまって「ごめんなさい」も入ります。

だから、男は定期的に、そして一つになった時に「ごめんなさい」と言わなくてはいけません。
| KAN | 2008/02/23 1:32 AM |
追記です。

そして、愛しているの意味が分かれば、あなたは一人で生きていく事もできます。

それを選ぶのは、あなたの自由です。

僕が、あなたの自由を全肯定しますから。
| KAN | 2008/02/23 1:04 AM |
>他者が私の行動を認識・許容して初めて、
>私は自己の存在を認識・許容できる、ということでしょうか?

そうです。この場合それをするのは、あなたにとっての異性です。
その異性があなたに対して補填する、
つまりその彼が、あなたが「女性であること」の全肯定をする事によって、
初めてあなたは女性になるのだと思います。

その男性が全肯定を行うというのは、数ある女性の中から一人だけを選択するという事です。
何故なら、一人の女性を全肯定するという事は、生涯他の女性を女性と見なさない証明であり、
生涯ずっと、あなたの女性という性を保障する、という事なんですから


>私が一人で生きていたら、それは、
>私が他者に認識され受容されているからなのよ、
>ということなのかしらん。

そうですね、他者に他者として認識、受容されている状態です。
しかしこの場合、男女という性は曖昧です。
どちらでもあって、ない状態です。

僕らはとにかくよく分からないけど、この肉体に閉じ込められている。
それにたまたま男という肉体と女という肉体の二種類があった、そして、僕らはどちらかに入っている、それだけです。

そして、男というのは、自分が凸だと認識しして性を得ます。
しかし女というのは、凹むです。これは、凸が入らない限り、本当の意味で性を認識する事は出来ません。

しかし凹は定期的にその「へこみ」を補填します。それが、生理です。激しい痛みが伴う出産の代償行為と言ってもいいと思います。
そしてこれは、「男の代わりに罪を償う」という意味もあるんだと思います。

この場合、男の罪とはなんでしょうか。
それは、男があなたの女という性を生涯保障されない可能性・・・子を作り母になれないという事と、
他の女の性も認識・・・他の母と子も作ってしまう可能性もある生き物だからと、知っているからです。

じゃあ男はどうすればいいかというと、一生涯その女の性を保障し、彼女の生理の度に「僕の為にごめんなさい」と言い続けなければいけません。
しかし、女性にとっては、自身の性の保障を一生涯約束し、彼女の生理の度に懺悔する彼であっても、そんなものは信用できない、となるでしょう。

だから、結婚というシステムがあるんです。
本当の結婚というのは、男が自身以外に証明するものがないから、行うのです。
そして、これもまた代償行為です。

この場合は、「女の代わりに罪を償う」という意味だと思います。
これは、男の自由を奪う罪ですね。
結婚が地獄という男は、これを奪われたから嘆いているのです。

その時、女性は「あなたの自由を奪ってごめんなさい」と言うと、不思議な事が起こります。

生理の度の「ごめんなさい」と自由を奪う度の「ごめんなさい」と男女二人とも同じ言葉を使っているでしょう。

お互いの「ごめんなさい」が交わる時、どんな気持ちになるでしょうか。
悲しい気持ちだけですか?多分違うと思います。
そこに互いに感謝の気持ちが生まれるんだと思います。
それは「ありがとう」という言葉ですね。

そしてこの涙と笑顔を作る、矛盾した二つの言葉の意味を持つただ一つの言葉が、
「愛している」なんだと僕は思うんです。
| KAN | 2008/02/23 12:45 AM |
あーもしかして。
私が一人で生きていたら、それは、
私が他者に認識され受容されているからなのよ、
ということなのかしらん。
| ハルイ | 2008/02/22 11:16 PM |
>KANさん


ここで言っている「つがう」とは、社会的に結婚する、ということです。
「周囲に認められる男女の一組になる」かどうかを考えることと、
自己と他者の関係を考えることとは、
イコールの問題にはならないのではないでしょうか。
「別」とはそういう意味です。

人は一人であり、他者になることはできません。
そういう意味でいうならば、人は皆、一人で生きています。
そして、私が「独りで生きる」と言うのは
自分以外の誰かと暮らすことなく「独りで生活していく」ということです。
……うーん、しまった。ロジックの綾になっちゃったな(笑)。


>それには他者があなたの喜怒哀楽という感情から生まれる行動を
>認識・許容する事があって初めて生まれるものです。

ええと。整理すると。
他者が私の行動を認識・許容して初めて、
私は自己の存在を認識・許容できる、ということでしょうか?
そして、他者に認識・許容され、他者を認識・許容することで初めて、
私は一人で生きていける、という。


私が私という存在を認識・受容するということは、
私にとっては言葉通りのことです。
或いは、私がここに存在する、ということで全てだ、と言えるかもしれません。

他者が私のことをどう捉えているのか、知る術を私は持ちません。
KANさんの論に拠るならば、私は自身を認識することも、
私が一人で生きていけているのかどうかを知ることもできません。
それでも私は生きています。
なんだかわからないけれど私は生きていて、
わからないながらも、とにかくどうせ生きているのだったら、楽しい方がいい。
それが信条なので、自身の存在については、
単純にそれだけのことだと私は思っています。
| ハルイ | 2008/02/22 11:12 PM |
他者の存在を認識・受容する事は果たしてつがわず生きる事とは別なのでしょうか。
僕はそうは思いません。寧ろ、一番大切な事だと思います。

それは、他人を他人として認識し、その彼、彼女の喜怒哀楽という感情からの行動を
自分が受容、というより許容できて、初めて人はつがわず、つまり一人で生きていけると思うからです。

そこには、一人であって一人でない気持ちが溢れています。


それでは、自己という存在をあなたが認識・受容する事とはどういう事でしょうか。

それには他者があなたの喜怒哀楽という感情から生まれる行動を認識・許容する事があって初めて生まれるものです。

そして、その時あなたは初めて一人で生きていけると思うのです。
| KAN | 2008/02/22 7:30 AM |
>KANさん

そうですね。そういうことについて男女の違いはないと思います。
存在する他者が性を問わないのと同様に。
そして、他者の存在を認識・受容することと、つがわずに生きることとは、
また別なのだと思います。
| ハルイ | 2008/02/21 11:20 PM |
>対幻想は「一人では不完全。他者のいないおまえは無だ」と、

人は一人で完全であり、有です。
しかし、そうなった人間は最早自分は一人ではないのだと気付いてしまう。
それは社会的立場とか、寂しさ、支配などの脅迫観念ではなく、何処からか呼ぶやさしい声の様なものだと思います。

そしてそれについて、男女の違いというものはないと考えています。
| KAN | 2008/02/18 9:34 PM |









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